130th Anniversary Exhibition: Maeda Seison and the Nihon Bijutsuin (Japan Art Institute) |
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生誕130年記念 |
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前田青邨 |
と |
日本美術院 |
―大観・古径・御舟― |
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日本美術院を活躍の中心とし、大正から昭和にかけての近代日本画壇を牽引した画家・前田青邨(1885-1977)。 2015年はその生誕130年にあたります。 当館ではこれを記念し、山種美術館所蔵の青邨作品を一挙公開するとともに、横山大観・菱田春草・下村観山など日本美術院の先人たち、小林古径・安田靫彦・速水御舟・平山郁夫など同時代の画家や後進たちの作品を紹介する展覧会を開催いたします。 |
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1885(明治18)年に岐阜県中津川に生まれた青邨は、16歳で画家を志して上京、当時挿絵画家としても人気を博していた梶田半古の門下となります。 若き日の青邨は、この半古塾で同門の古径や奥村土牛とともに研鑽を積みました。 同時に、若手画家たちによる研究会・紅児会にも参加し、靫彦や今村紫紅、御舟らと交流し、新しい日本画の在り方を模索していきます。 一方、1951(昭和26)年より東京藝術大学で教鞭をとった後年の青邨は、制作者としてだけでなく優れた指導者としての側面も持ち、多くの秀でた後進を育てたことでも知られています。 |
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本展の見どころ |
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会期: 2015 6/27(土)~8/23(日)展覧会は終了しました。 開館時間:午前10時から午後5時 (入館は午後4時30分まで) 休館日:月曜日(但し、7/20は開館、7/21は休館) 会場:山種美術館 〒150-0012 東京都渋谷区広尾3-12-36 URL http://www.yamatane-museum.jp |
※山種美術館展覧会資料からの抜粋文章です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。 |
生誕130年記念 |
重要文化財 “速水御舟 《炎 舞》” 2年ぶりの公開! |
【展覧会の構成】 ―「前田青邨と日本美術院―大観・古径・御舟―展」プレスリリース・資料などからの抜粋文章です― |
本展では、山種美術館所蔵の青邨作品全13点のほか、師・半古の 《緑翠》、日本美術院の開拓者ともいえる大観の 《作右衛門の家》、観山 《老松白藤》、 同門の古径 《菖蒲》 や土牛 《城》、 紅児会仲間の靫彦 《平泉の義経》 や御舟 《炎舞》【重要文化財】 (2年ぶりに特別公開)などもあわせて展示します。
さらに、青邨の教えを受けた守屋多々志が恩師追悼の意を込めて描いた 《平家厳島納経》、平山郁夫 《阿育王石柱》 など、後進たちの作品まで含め、幅広い交流関係を通して青邨と日本美術院の画家たちの歩みを振り返ります。 (全作品 ・山種美術館蔵) |
「前田青邨と日本美術院―大観・古径・御舟―」の展覧会構成 |
第1章 日本美術院の開拓者たち |
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・ 横山大観(1868-1958) 《作右衛門の家》 1916(大正5)年 絹本裏箔・彩色 山種美術館蔵 |
第2章 青邨と日本美術院の第二世代―古径・靫彦とともに― |
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・(左) 安田靫彦(1884-1978) 《出陣の舞》 1970(昭和45)年 紙本・彩色 山種美術館蔵 |
第3章 紅児会の仲間と院展の後進たち |
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・ 小山 硬(1934- ) 《天草(納戸)》 1973(昭和48)年 紙本・彩色 山種美術館蔵 |
日本画家・前田青邨(1885-1977) |
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岐阜県中津川に生まれる。 本名廉造。 明治34(1901)年、16歳で上京し、梶田半古に師事。 明治40(1907)年、紅児会に参加し、安田靫彦、今村紫紅、速水御舟らと交流を深める。 大正3(1914)年、再興第1回院展に出品し、同人となる。 以後院展を中心に発表。 大正11年、美術院の留学生として同門の小林古径と渡欧。 昭和19(1944)年、帝室技芸員。 昭和26年より東京藝術大学教授、平山郁夫らを指導する。 昭和30年、文化勲章受章。 大観、春草ら院展の第一世代に続く、第二世代の画家として古径や靫彦とともに、大正・昭和の時代の日本画壇の中心的存在として活躍した。 歴史画を中心に、人物から花鳥まで幅広い題材を手がけた。 |
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前田青邨が生涯にわたって活躍の場とした日本美術院は、1898(明治31)年、岡倉天心を中心に 「日本文化の伝統を踏まえ、文化財を保護し、かつ芸術を奨励して未来に繋げる」 という理念を掲げ設立されました。 正員(現在の同人) には橋本雅邦、小堀鞆音、横山大観、菱田春草、下村観山ら精鋭の26名の画家が選ばれ、古典に学びながらも、個性を加味した新しい日本画のありようを探っていきました。 ところが、天心の指導のもとに大観、春草が試みた 「空気を描く工夫」、すなわち 「色的没骨」(線なしの色彩描法) が、「朦朧体」 と揶揄され世間の不評を買います。 深刻な運営資金難に陥った美術院は茨城県の五浦へ移転を余儀なくされ、天心渡米に伴い、休眠状態へと衰退します。 病に倒れた天心の没後一周忌にあたる1914(大正3)年、天心の理念と精神を受け継いだ大観や観山、木村武山、洋画家の小杉未醒(放菴) らが中心となって日本美術院を再興、第1回展を開催し再出発を果たしました。 |
お問合せ:03-5777-8600 (ハローダイヤル) |
出典資料:生誕130年記念「前田青邨と日本美術院―大観・古径・御舟―」 Press Release、他。 |
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